2020.7.27 : 知られざるマッドチェスター
By Thomas Barrie 27 June 2020
写真家アメリア・トラウブリッジが捉える、The Hacienda、トニー・ウィルソン、そしてNew Orderが席捲した一時代の終焉
様々な議論はあるものの、マッドチェスターがサッカーに次いで文化発信源マップ上の確固たる地位にマンチェスターを押し上げたムーブメントであることは間違いない。FACTORYレーベルのオーナーであり、バンドのマネージャー、そしてクラブの運営者である晩年のトニー・ウィルソンが仕掛け人となって世に生み出し、ロンドンをカルチャーの王座から引きずり下ろした80年代後半から、クラブハシエンダが終焉を迎えた1997年までのあの時代。マイケル・ウィンターボトムによって後に映画化された24アワー・パーティー・ピープルが描くアシッドハウス伝説と、それを記録しようとM6(高速道路)を北上する若き日のアメリアとの出会いは、そこから始まった。
あれから20年の時を経て、当時の貴重写真等の記録が満載の近著「マンチェスター 1997-2001」が近く出版される。
マンチェスター最高の一時代を過ごしたトラウブリッジが、GQに語った。
GQ: この写真の撮影背景を教えて頂けますか?発注者であるとか撮影方法、また当時住んでいた場所など。当時はどんな意図があったんでしょうか?
AT: 当時はイーストロンドンに住んでいて、ポートフォリオ(作品集)をエスクワイヤ誌に持ち込んだら、マンチェスターとそこで生活する人々の写真を撮らないか?という話をもらったの。最初に滞在したのは1週間くらいで、その際トニー・ウィルソンと初めて会い、サポートしてもらえることになった。当時"24 Hour Party People"(映画)の制作が進行していたのでその現場撮影を担当することが決まって、その後ニュー・オーダーに会い、彼らのアルバムワークも手掛けることになったわ。
撮影中はずっとパレスホテルに滞在していたんだけど、夜の過ごし方と言ったらすごかった。ある週末は、カイリー・ミノーグすらいて、皆で一緒に飲んだり。マンチェスターでちょうどライブがあったから。
フォトグラファーになった最初の頃は、モノクロ写真に熱中していて、MAMIYAのミディアムカメラを使ってた。その後少し軽いのにしようと思って、まだ結局決め切れていないのだけど。35mmカメラを使うようになって自由になったから、作品とその説明に関心が行くようになった。カオスのさなかで、それを捉えるのがとても私は得意だったし、35mmレンズにはとてもはまって、そのおかげで被写体へもっと近づいていくべきだという使命を感じた。最初は乗り越えられないのではと恐れを感じていたけど、試行錯誤しながら慣れて行った感じ。
GQ: 一連の作品に取り組む前から、トニー・ウィルソンやニュー・オーダーのファンだったのですか?実際仕事としてかかわる前にも個人的な知り合い?結構親しい関係だったのですか?
AT: 特に親しくはなかった。10代の半ばくらいに、サウスロンドンのMinistry of Sound(ロンドンを代表する有名クラブ)がちょうどできて、クラブシーンにハマりっぱなしだったわ。残念なことに、その頃はまだカメラを手にしてはいなかったんだけど。レイブシーンの当事者って感じだったけど、まだマンチェスターには足を伸ばしていなかった。New OrderとHappy Mondaysの音楽は知っていたし、90年代初めはロンドンで仲間たちと遊び過ぎてたから。
New Orderのベーシスト、ピーター・フック
GQ: この写真に写っている人物について教えて下さい。トニー・ウィルソン、ベズ、デイヴ・ハスラム(ハシエンダのDJ)、ピーター・フック。当時の思い出などありますか?
AT: 私にとってはみんな偉大なる開拓者で、英国文化のランドスケープを作り上げた重要人物ばかり。そうした昔の出来事を共有したら面白いと思ったの。
トニーは、進行役って感じで、俯瞰で物事を考えていて、夢追い人だった。フッキーはとてもおおらかな人。スティーブは物静かで、控えめ。ベズはすごい。ベズはもう、ベズとしか言えない。ショーン・ライダーは特別ね、彼の結婚式の写真も、2008年に私が撮ったの。
GQ: ハシエンダがクローズしたのは1997年で、90年代初頭と言えば多くの人がマッドチェスターを連想すると思いますが、あなたが撮影をしていた当時は、すでにムーブメントは下火になりかけていたんですか?彼らはマッドチェスターの終わりを予測していたと思います?
AT: いいポイントね。この頃には、彼らにとってムーブメントはほぼ終わっていたようなものだった。巨額の負債とか、、色々ね。この本に載っているトニーの写真は、かつてハシエンダが建っていたがれきの中で撮ったの。その後すぐに豪華マンションに建て替わったんだけど、目先の利益に惑わされている!と思ったわ。でも考えてみれば、当時ハウスミュージックシーンがこんなにグローバルなレベルになるなんて、誰も思ってなかったと思う。
ハシエンダ内での24アワー・パーティー・ピープル撮影シーン
別にそれがマンチェスターの終わりだったとは思わない。滞在当時は本当にクレイジーなことをたくさん目の当たりにしたけど、2000年に入っても、プレスクラブ(マンチェスターの悪名高きナイトクラブ。乱闘騒ぎでたびたび警察の摘発を受け、2017年に閉鎖)は素晴らしかった。トニーはまだ自分のやるべき事を続けていたし。最近もロックダウン中に、マンチェスターで4,000人が違法レイブパーティーに集まったでしょ?マンチェスターっていつもこう、ちょっとマッドじゃない?
GQ: ハシエンダとマッドチェスターは、ポップカルチャーにおいてマンチェスターのウッドストックであるとか、スタジオ54(70年代のNYで一世を風靡したナイトクラブ)になぞらえて語られることが多いですが、トニー・ウィルソンやファクトリーは将来そのように評価されることを予感していましたか?当時、そのような神話は既に根付いていたんでしょうか?
AT: 当時はそんなことはなかったと思う。私は自分の仕事をしにマンチェスターへ向かって、街の風景とそこにいる人々を撮影していただけ。私が思うにそういう説が定着したのは、ウィンターボトムが映画化することを発表してからじゃないかと。映画が成功するのは見ていて楽しかった。ケビン・カミンズの写真も素晴らしかったし、彼の写真のおかげで伝説が上手く描写されている。もちろん、アントン・コービンのコントロール(イアン・カーティスの伝記映画)もね。
GQ: 撮影を始めた頃、あなたはまだだいぶお若かったと思いますが、同一の対象を4年間も追い続けるのは長いと感じそうな気がしますが・・・撮影手法を変えたいとは思いませんでしたか?また、写真家としてどのように成長を目指していたのですか?
AT: かなり若かった。この時まだ座っていられる時間も全然なかったし、内省する時間も余裕もなかった。本当に熱心に取り組んでいて、人間社会を幅広にどう描き出すかというミッションに必死になっているうちに、世界を様々な角度から見られるようになった。でも、周りの年上の人達から随分学んでいるのはわかっていたし、そうした人々を観察するうちに人生の大きな絵を描くことや、学びを得て行ったわ。
マンチェスターにはいつも呼ばれていると思ってる。当時のストーリーを一緒に語れる友達もいるし。そんなことは当時思ってもみなかったけど。
24アワー・パーティー・ピープルの後、私の人生に変化が起こった。落ち着いて自分の写真家としての方法論や技能を伸ばす余裕ができたし、マンチェスターシリーズで撮り下ろした写真の数々に違ったエネルギーを吹き込むことができたと思っている。
■アメリア・トラウブリッジ公式サイト
■NOTE
今回初めて彼女の存在を知りましたが、写真家としても一人の人間としても、なんとも羨ましい人生を歩んでおられます。私と同じ年齢なのに、だいぶ早熟なお方のようで・・・10代半ばからサウスロンドンのクラブに出入りしていたとは、正真正銘のパーティーピープル?を想像してしまいます。
しかしポートフォリオを見ると、静謐なたたずまいの中にどこか微かに憂いを感じさせる表情のポートレイトが多く、この記事の写真を見てもマッドチェスターの狂乱が過ぎ去り、音楽性の進化以上に人間性をすり減らしてしまったFACTORYの面々の苦悩が垣間見えるような気がしてきて、興味深いです。
そういえば、マンチェかぶれだった女子高校生時代、文化祭の出し物で「レイブパーティをやりたい!」と言って"Madchester!"が表紙のNEWSWEEKを持っていき、担任を説得したのはよき思い出です・・・担任の体育科のI先生は、おそらくレイブパーティが何だかわかってなかったと思いますが、「部屋を閉め切るなよ」とだけおっしゃり、OKして下さったなんとも懐の広いお方でした。
アメリアさんに比べればかわいいもんですね!笑